※トランス女性って要はオカマのことだろ?
この問題でわたしが改めて驚かされたことがあります。いちおう人権に関する話として語られるべきトピックであるにも関わらず、しかも多くの場合、話者がリベラルやフェミニストの看板を掲げているのにも関わらず、当事者にとってはまったくリアリティに欠けたトランス女性像が一人歩きしていることです。いわゆるTERFの皆様が語るトランス女性はあくまで「女装した男性」であり、男性としてのマジョリティ性をそのペニスゆえに備えており(この時点でわたしには「は?」なのですが)、したがってマジョリティならではの厚かましさで女性専用スペースに「トランス女性の権利!」と叫びながら乱入してくる、というものです。そしてこのトランス女性像と女装した性犯罪者の区別がつかないと……
当事者からすれば、控えめに言っても嗤うべき愚かしい無知と想像力の欠如の産物なのですが、この仮想トランス女性が存在不可能であることを——本当にうんざりすることですが——これから示してみましょう。
トランス女性とは男性の身体に生まれつきながら、社会的には女性として生きようとする人々の総称です——自認云々はこの際考えなくていいでしょう。内心のことなどはかりようがありませんから——一方この社会には男女の別がある。そしてトイレやお風呂には男女それぞれのスペースがある。
ところで、これも繰り返し述べていることですが、トランス女性は一般に日常生活では見ず知らずの他人に元の性別を知られたくないものです。なぜなら、この社会の成員全てがトランスに理解があるとは言えず、この社会のシステムのほぼ全てがトランス向けには作られていない。そして何よりトランス女性自身が「実は男」と言われることに怯えている。
元の性別がバレれば街で突然酔っ払いの集団に囲まれ嘲られる危険がある。トイレにも入れなくなる危険がある。ですから、ホルモン治療を受け、場合によっては整形までして、パス度を上げる努力をするのです。
多くのトランス女性がホルモン治療の開始期に男子トイレでトラブルに遭っています。移行期には自分がどちらに見えているか自分では確信が持てないので、とりあえずこれまで入っていた方に入ります。わたしの場合はこの時期は男性にも女性にも見える服装をしていました。
そうして用を足した後に手を洗っていると、後ろから男性が入ってくる。すると鏡に映ったこちらの顔と後ろ姿を見て驚愕の表情を浮かべ慌てて出て行き、数秒後にまた入ってきて、「ちょっとここ、男子トイレですよ」と言われるわけです。
これがやがて移行が進むと、日常的に女性装で生活するようになります。そうした生活の中で外出中にふと尿意なり便意なり催したとします。誰でもトイレがなかったら?……大丈夫、もうわたしはこれで生活しているのだから、と思いつつも、多少の後ろめたさとともにさっさと女子トイレで用を足すしかないでしょう。わたしは8年以上そのようにしていて、一度もトラブルを起こしたことがありません。逆に男子トイレに入っていたら数え切れないトラブルに遭遇していたことでしょう。そしてわたしはその度に「わたしは女装していて大きな乳房がありますが実はペニスが付いています」と特に必要のないはずの屈辱的なカミングアウトを見ず知らずの人に、そこにいるという事実をもってして、してしまうのです。
この問題に関連して、とあるリラックマアイコンの男性アカウントが、女性の姿をした人も男子トイレに受け入れるべきなどと宣っているのはまことに愚鈍の極みと言うほかありません。トランス女性のことを何もわかってない、分かろうとしないなら、黙っていてくれませんか?
そしてここまで言えば、お分かりかと思います。TERFの皆様が思い描いている仮想トランス女性像というのは虚像です。多くのトランス女性は日々「あれはトランス女性だ」「元男だ」「チンコついてるだろ」と指差されることに恐怖しながら暮らしているのです。その意味では変わりゆく身体を抱えて生きるトランス女性は紛れもなくマイノリティであり、マジョリティの厚かましさなど発揮できようはずもありません。
※「身体」にまつわるマイノリティを「直感」「不安」で語ることの愚
トランス女性は「身体」にまつわるマイノリティです。「身体」は常に、死ぬまで、24時間365日「わたし」につきまとうものです。したがってこれについて語るときは、当事者の身体性や個別の生活経験がまず丁寧に参照されるべきではないかと考えます。そうすれば、特に性器を他者に晒すことのないトイレの利用可否を一律「ペニスの有無」で決めることの理不尽さ、そしてトイレの話と公衆浴場の話をごちゃ混ぜにする議論の粗雑さがわかっていただけるはずです。
今回、トランス女性を擁護するフェミニズム研究者がTERFから集中砲火を受けています。このような攻撃を受けても反差別・反トランスフォビアの姿勢を頑として崩さない研究者の方にわたしは心から敬意を示すものですが、研究者の方がこのような姿勢を取れるのはおそらくは多数の生きたトランスジェンダーと——生身であれ、映像であれ、文献であれ——触れてきたからではないでしょうか。わたしにはその態度は、学者の傲慢という言葉からもっとも遠いもののように思われます。
一方、「身体」にまつわるマイノリティに対する扱いで一番誤りを生みがちなのは「直感」「不安」で考えることです。そこでは24時間じぶんのマイノリティ性と付き合って生きていかなければならない当事者のリアルはいっさい考慮されません。
「ペニス」「女装」「女子トイレ」「女風呂」「性犯罪」という言葉がタイムラインに踊り、「女性の不安」を煽ることでトランス女性を犯罪者扱いする呟きが溢れかえり、多数の当事者が傷付きました。今回の話題でトランス女性は散々ペニス呼ばわりされ、そして女扱いされたくば今すぐペニスを切れとまで言われた。けいたという糞が「ペニスが女子トイレに侵入してくる」という下品極まりない煽り方をしていた。あまりに屈辱的なことです。わたしはパンツを脱いで女子トイレに入るわけではありません。そして、日々この身体とこの性を生きるものとして、サバイバルしているだけなのです。わたしはトイレがセックスで分けられているかジェンダーで分けられているかという話にあまり興味が持てません。なぜなら、どのみちわたしはサバイバルのために女子トイレもしくは誰でもトイレを使わざるをえないからです。
そう、わたしたちはシスジェンダー中心の社会では「規格外」で、既存のシステムからはサポートされない存在なのです。であれば、たとえグレーなことであってもサバイバルをしなければならない。その「規格外」を生きる人間たちに今回リベラルやフェミニズムの一部から投げられた言葉はなんだったか。
もう、トイレやお風呂の話はウンザリです。
※トランス女性と性的被害
いま、ジェンダー関連の話題として、トランス女性の問題と並んでタイムラインを駆け巡っているのが女性の性被害についてのニュースです。どれもこれも目を覆いたくなるようなものばかりですが、トランス女性にとっても無縁のものではありません。
トランス女性が受ける性暴力には女性として受ける性暴力とトランス女性として受ける性暴力の二種類があります。わたしの受けたものでいうと、前者の例では満員電車の中での痴漢行為、後者はホステスをしていた時に受けた酒を飲ませた上でのレイプです。いずれも訴えることなどできません。わたしは性被害を訴えた女性の友人から警察でセカンドレイプまがいの質問をされた話を聞いています。もし、わたしが訴えたら……?
「あなたは男性でしょう。抵抗はできなかったのですか」「あなたはその時性的に興奮して勃起していたようですが、それでも合意はなかったのですか(そりゃしつこく触られたら女性ホルモンを打った身体でもわたしの場合は勃起くらいはしますよ。女性の陰部が濡れるようにね)」
訴えられるはずがないでしょう。泣き寝入りするしかないのです。たとえ、複数の人間から肛門にゴム無しで挿入され、射精され、血を流し、病気の感染のリスクを負ったとしても。「規格外」を生きているが故にサポートを受けられないというのはそういうことなのです。
ニューハーフ風俗の愛好者(つまりわたしのお客さん)の声として、こういうものがありました。
「ニューハーフは男の気持ちをわかってくれるから安らぐ」「ニューハーフは女性と違って感じてくれているのがわかるから嬉しい」
わたしは心の中で「違うんだよ、そう思ってくれるように接客してるんだし、そりゃプレイの中で触られたら硬くもなるよ」とつぶやくわけですが、ニコニコしながら「そぉですよね〜」と返すわけです。時々ゴムなしで挿入しようとしてくるお客をかわしながら。ちなみにニューハーフ風俗の利用者は大半が異性愛者です。奥さんや彼女がいる方も多いです。
ようするにトランス女性は男性から「ゆるい」「男性の性欲に寛容(なぜなら男同士だから)」と見られがちなのです。
トランス女性が性被害に遭いやすいのは、女性より男性に対する警戒心が薄いからだ、という""生得的女性""からの意見もありました。わたしに関していえば確かにそれは思い当たる節があります。わたしが性行為を強要された時はいずれも不注意にも男性と車に乗ってしまったからでした。でもだからと言って被害を軽視するのは違うでしょう。
わたしはトランス女性と女性の性被害を比べたいのではありません。体格差を考えれば、女性の方がはるかに抵抗が難しいということもできましょう。わたしは、トランス女性をあくまで男性と見なし性犯罪を起こす側として仮想する言説の流行は、性被害を受けたトランス女性の心を深く傷つける上に、トランス女性が性被害に遭うリスクをより高めるということを言っているのです。
※なぜそれを今言わなければならないのか
「""生得的女性""は再生産に関わる肉体として生まれ、それによって差別を受けてきたのでトランス女性とは区別されなければならない」という言説もまた耳にタコができるくらい……いや、目にタコができるくらい目にしてきました。わたしから言わせれば、「なぜそのことを今言わなければならない?」なんです。わたしはこの論争を通じて、再生産に関わるテーマで女性の身体を論じるのはトランス差別だなどといったことはありません。そんなことを言っているアカウントも見たことがありません。ただトランス女性の扱いに関して、お前は再生産に関わる肉体に産まれてないから女装した男に過ぎないんだよと述べることは明確に差別と言えるのではないでしょうか。
「規格外」の人生をサバイバルしているトランス女性の中には将来の見通しがつかず、刹那的な生を生きる人間もいるのです。このわたしのように。せめて、より周縁に追い込みをかけるような言説は控えていただけないでしょうか。
わたしは手術要件の撤廃には現時点では慎重な立場です。なぜなら、そのような改正がトランスフォビアに火をつけ、状況がより悪化することが目に見えているからです。わたしがあえてこのような立場を表明しなければならない状況を分かっていただけるでしょうか。