透明なグラデーション
「生きているだけでトラブルを招きかねない存在」なのは、もともとマジョリティ(男性)である人がマイノリティ(女性)側に入ろうとしているからマイノリティ(女性)側にトラブルを招きかねないのであって、それは当然受け入れるべき事実なのでは?【原文ママ】
※セクシュアル・モラトリアム
「さあ、終わりましたよ」
遠くから聞こえてきた声がだんだんと近づいてくる。
「痛かったですよね。もう大丈夫ですよ」
そこでようやく意識がはっきりしてくる。目と鼻に鈍い、しかし頑固な痛みを覚える。目が開かない。涙が止まらない。いやこれは涙ではなくて血……?
顔の上にガーゼがかけられる。布が涙だか血だかわからない液体を吸って、顔にぴったりと張り付く。
三度目になる整形手術をした。
豊胸と合わせれば、身体にメスを入れたのはこれで四度目ということになる。
それにしても、手術というのは実にしんどい。
はじまる前はほんとうに怖い。そのあとはほんとうに痛いし、つらい。
今後、わたしはこれをあと何度やらなければならないのか(次の整形とか、性別適合手術をしたりだとか、どこかに癌ができたりとか)と考えると、本当に人生とはままならない、どこかでとっとと自分でケリをつけたほうがよっぽどいいのではないか、とすら思える。こんな面倒くさい、痛くて、なにより痛々しい人生なんか、ひとおもいに。
そして手術直後の顔面といったらそれはもうひどいものだ。
目は開きづらいし、そのまわりは内出血で変色し、鼻は腫れあがっている。
それはちょうど試合後のボクサーのよう。当然鏡でそういう自分の顔と向き合うのはひどく落ち込むことだし、この状態がちゃんと治るのか、いや、治るだけではなく、期待したほどに「いい顔」になっているのか、本当に心配になり、ナーバスになってしまう。
わたしがこれまで美容整形に費やした額は、とうにSRS(性別適合手術)にかかるであろう費用を超えている。超えているどころか2倍以上だ。つまりやろうと思えば性別移行はすでに終わっていた。
なのになぜ、このようないわば「セクシュアル・モラトリアム」状態を続けているのか。インターネット上では「未オペMtF」に対する風当たりが強まっているというのに。
もちろんすべての未オペMtFが同じ事情であるはずはない。
しかしいずれにしろ、その事情は個々の生活を追ってみることなしに理解はできない。わたしは今回TSとTGの間の微妙なグラデーションにスポットライトを当ててみようと思う。
目的?
それは最後まで読んでくれればわかるはず。わからなかったらそれはわたしの力不足。ベストを尽くしてみるから最後まで読んでね。
※避けがたい「パス度」のはなし
さて、ツイッターで去年ごろからずっと燃えている「トランス女性の人権」や「トランス差別」の話について。
もちろんわたしはこれまでトランスに向けられたあらぬ誤解や悪意にひどく腹を立てて、またその流れでの発言はしてきた。ただ、わたしが「人権」「差別」という話には今一つ乗れないのは、そういういかにも「左」な話題にアレルギーを抱いているから、ではない。
そうではなくて、結局インターネットでいくら論戦をしてもこの社会における性別移行者への偏見や差別は現状なくならないし、生きていたら絶対ひどい目に遭わされるから。ある意味、あきらめているから。
差別されること、ないがしろにされること、嗤われることが、デフォルトだから。
オネエ呼ばわりされること、「襲わないでネ」とお尻を隠すポーズをされること、昼職バイトで落とされることが「ふつう」だから。変態扱いされることも、「あれはやっぱり男」とかげで言われることも「日常」だから。インターネットで人権や反差別を叫んでもそれはきっと変わらないから。
確かに2019年のこの国において、性別移行者の存在はメディアを通じてそれなりに知られてきたし、理解してくれる人、そこまではいかなくても尊重してくれる人、は増えてきた。しかし100人いたら100人がそうというわけではない。そしてこの人生、そうというわけではない人と出会わないで済ますのは至難の業である。昨今のヘイターによるツイッターの書き込みを見てその思いを強くした当事者もかなり多いのではと思う。
差別されること、嗤われること、ないがしろにされることからは避けられない。
トランスと認識される限り。
ではどうすればいいか。
簡単な話で、トランスと認識されなければいい。
つまりパッシングの話になる。
※そりゃあ「パス」はできた方がいいけれど
そう、トランスだと気づかれなければ、つまりパスができていれば、トランスゆえの不遇な目に遭うことはかなり避けられる。たとえオペそして戸籍変更を済ましていなくてもある程度平穏な暮らしは約束される。
移行先の性別のトイレを使ったところで誰にも文句を言われることはない。
なぜなら、気づかれないのだから。(むしろ知人にそのことを言うと「いやいやあなたが男子トイレに入ったら大変でしょ(笑)」などと言われる)
逆に言えば、たとえオペや戸籍変更を済ましていても、元の性が明らかにわかってしまうような見た目の場合、性別分けされた公衆トイレの使用を自粛せざるを得ないケースも考えられる。トイレで誰何された場合は身分証明書を見せればいいという意見もあるけれど、当事者にとっては誰何されることそのことが計り知れない苦痛となる。誰でもトイレはどこにでもあるわけではない。
こうした事情の当然の帰結として、「パス」「パス度」の話題は当事者にとってきわめて切実なトピックとなってくる。メイク、脱毛、立ち振る舞い、声の出し方、服のチョイス、さらには美容整形のことについて。
あるトランス女性がフェミニズム界隈では非常に評判が悪い『ルッキズム』に支配されているように見えたとして、それはこのコミュニティ全体がこうした「パスせよ。さもなくば」という圧力に晒されている結果であって、そのトランス女性の『オートネガフィリア性』を指摘するのはせめてそこを考慮したあとにするべきだと思う。そして美しくなりたいという願望は別にトランス特有のものでもない。
何より大事な点は、現実生活において「パスできないこと」「リードされること」「アウティングされること」を恐れるトランス女性像というのは、トランスヘイターが想定するトラブルメイカー的トランス女性像とは相当な距離があるということである。ここまで読んで考えてみてほしい。この2019年の日本において、どちらのトランス女性像がリアルか。どちらのトランス女性像に生の息吹が感じ取れるか。
とはいえ、わたし自身もパスこそがすべてといった界隈の風潮はあまり健康的ではないと思う。以前こちらの日記にも書いたけれど、リードされたかなと疑うたびにメンタルを大きく崩したり、強迫観念的にパスを求めてそちらに生活のリソースをつぎ込んだりするような状況はトランスの生きづらさの原因にもなっている。このパスの圧力を軽減するためにはどうしたらいいか、具体案はわたしの中でまだ出ていない。ただひとつ確実にいえるのは、インターネット空間におけるトランスヘイトは、この「パスの圧力」をより高める作用を持つということだ。
※「いつかこれ、切っちゃうの?」
個人差はあれど、女性ホルモンを長年摂取すると身体は丸みを帯びてくる。体毛も薄くなる。肌質や、髪質も変わる。顔の肉の付き方にも影響するので当然ながら人相も変わってくる。そこにさらにメスを入れて胸と顔をより女性的に変える。
その身体にペニスがついている。
わたしはその身体で殿方様に喜んでいただくお仕事をしている。早い話が風俗嬢だ。
「いつかこれ、切っちゃうの?」
これは、たぶん『新規のお客さんから聞かれる質問ランキング』のトップ5くらいには入ってくる。そしてだいたいのお客さんはこういう。
「切らない方がいいと思うんだけどなあ」
わたしは苦笑して言う。
「ご安心を。このお仕事を続けている限りは切りませんよ。辞めた後ですね。どうするか考えるのは」
事実そのつもりだ。わたしのプレイスタイルからするとSRSをしてしまうとお客さんの数はぐっと減ってしまうだろう。そしてSRSを急がなければならない理由は今のところはない。結婚を考えている男性もいなければ、自分の性別をハッキリさせなければいけない理由もない。このセクシュアル・モラトリアムを当面続けていくことは自分にとって合理的、そう思っている。こういうグレーなところで生きている人間がこの世界にはいる。
何度も繰り返すけれど、女性専用スペースについては「そのスペースの性質に応じて個別の判断、または管理者との相談によって決める」である。
※「この子は男じゃないんだから」
わたしは温泉が好きだ。お風呂から上がった時にお肌がつるつるさらさらしているのがなんとも気持ちいいし、露天風呂ならさらに格別だ。
だけど、「個別の判断」の結果により、大浴場は入れない。そこでどうするかというと、貸し切り風呂のある温泉宿をとる。こうした宿は少しばかり値が張る傾向にあるけれども仕方がない。
先日、実家の近くのとある有名な温泉に両親を招待した。これで度重なる親不孝がチャラになるとは思ってないけれど、毎年こうしてチマチマ借金を返しているつもり。おそらく完済はどう頑張っても不可能だろうけれども。
改名して五年近くにもなるのに両親は未だにわたしを男性名で呼ぶ。しょうがないと思っている。とはいえ、旅館の従業員など赤の他人が聞いている場所でわたしを昔の名前で呼ぶのは勘弁してほしい。
食事を終えて、個室露天風呂に入るまえにタオルや浴衣を準備しているわたしに、母親が言ってきた。
「お母さんもその個室の露天風呂に入ってもいい?」
「え。さっき大浴場入ったでしょ」
「だってすごい景色がいいっていうじゃない」
貸し切り露天風呂を使える時間は40分しかないので、時間を分けて入る余裕はない。
「じゃあ、一緒に入る?」
母親はずいぶん久しぶりになるわたしの裸を見て黙っていた。
何と言ったらいいかわからなかったのだと思う。その一方で母親はわたしが何の仕事をしているかおおよそ察している気がした。
お風呂からあがると、父親がテレビを見ながらビールを飲んでいた。
そしていつものように、将来のことについての説教めいた話になった。いつものようにわたしは父親の言葉を右耳から入れては左耳から外に出していた。お決まりのBGMのようなものである。
そんな調子だったから、母親が父親のどんなセリフに次の言葉を言ったのかわからない。「いずれお前も」だとか「ちゃんとして」みたいなセリフだったと思う。でも母親がこういったのははっきりと覚えている。
「お父さん、この子は男じゃないんだから、もうそれは言わないの」